仁左衛門さんは凄すぎる、通し狂言『仮名手本忠臣蔵』

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12年ぶりとなる歌舞伎座での昼夜通し公演、
「通し狂言仮名手本忠臣蔵」は、予想を超える深い感動と驚きに満ちた演目だった。

この公演の最大の魅力は、
ただ単に大作を一日がかりで上演するというスケールの大きさだけではない。

むしろ、
それを支える演出や演技の緻密さ、
そして歴史的背景が織り成す巧妙な融合にある。

「時は元禄14年・・・」ではなく、

あえて室町時代を舞台にした理由。

それは、
江戸幕府が厳しく規制を敷いていた背景にある。

幕府は、実際の歴史や実話を題材にした劇作を禁じており、

観客に現実の政治的状況を連想させるような演目が演じられることを忌避した。

こうした政治的抑圧を背景に「仮名手本忠臣蔵」は南北朝時代をベースにした物語に巧妙にアレンジされ、登場人物の名前や背景が異なるものに置き換えられた。

南北朝時代といえば、
「太平記」(大河ドラマの足利尊氏は真田広之、
後醍醐天皇は本作の大星役(大石内蔵助)の片岡仁左衛門)にみられるように、

日本でも王朝が南北に分裂したスリリングな時代、

エンターテインメントの題材としてはもってこいの時代だ。

その巧妙さが、
この作品に一層の深みを与えている。

具体例のほんの一部を挙げると、

冒頭の緑柿黒色の定式幕がゆっくりと開くシーン、

人形浄瑠璃の人形のように、

演者一人一人に魂がしっかりと入れられ、その厳かな雰囲気が観客を引き込む。

「役者が違う」という意味を強く感じられた。

演出面でも、どんでん返しの仕掛けや舞台装置の巧妙さが光っていた。

たとえば、大詰めの段階で見せる舞台装置の変化や、

場面転換の仕掛けが、物語に対する観客の感情をさらに引き寄せる効果をもたらした。

また、舞台装置の変化に合わせて、登場人物の内面的な変化が見事に表現され、
演出が物語の進行に合わせて巧妙に工夫されていることが分かる。

全11段からなる本作は、大序や六つの段に加え、スピンオフ的な道行きのシーンも挿入されており、その豊かなストーリー構成、

特にスピンオフ的要素である道行の段での舞も素晴らしい。

欲を言えば、

荻生徂徠の四十七士への提案、

打首ではなく、
世間が求めた無罪でもなく、

武士としての敬意を含めた罰、
なおかつ、
幕府の面目も立つ提案、

その他、
政治的提言や思想が登場する場面も見たかった。

徂徠は、幕府の専制に対して時には批判的な立場をとり、

その立場から人々の倫理や道徳、社会構造に深い洞察を加え、

武家諸法度の改定なども提案したそうだ。

そんな事は置いておいて、

本作は単なるエンターテイメントにとどまらず、

観客に深い思索を促す虚実が入り混じる、
ドラマティックな大歌舞伎だった。




 

ベイビーわるきゅーれ

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アイデア満載。

ちゃむちゃむアイデアよ、
セーフでございますセンスよ、
アクションの血汗涙よ、
ワールドワイドでふりふりしゃかしゃかおいしくなーれ!

極悪党集結200万点。




 

『ザ・スーサイド・スクワッド 極悪党、集結』 素晴らし過ぎる

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ジェームズ・ガンが引き継いだDCユニバースの中でもひときわ異彩を放つ作品だ。

冒頭から暴力的で荒唐無稽なキャラクターたちが次々と登場し、
そのメチャクチャぶりに観客は心の中で、
「え、これが本当に映画?うれしー!」
または、
「こんなの映画?さいあくー!」
とどちらかに思わずにはいられないだろう。

まさに、ガンが仕掛けた極悪党たちによる「カオスの祭典」だ。

敵前逃亡のシーンが訪れた瞬間、
思わず自分も敵前逃亡したくなる気分にさせられるのは、
まさにジェームズ・ガンらしいブラックユーモアと皮肉が効いているからだ。

キャラクターたちのほとんどが死ぬことを前提に登場し、
それが逆に観客の笑いを誘うという奇妙な現象が起きている。

「やっぱり笑ってしまう」ということだ。

この映画の面白さは、ただのアクションや爆破だけではない。

サメネズミ、ヒトデ、イタチなど、
あり得ないキャラクターたちが無茶苦茶に絡み合い、
心底笑えるシーンが次々と展開する。

どれもこれも、他のスーパーヒーロー映画では絶対に見ることができない、突飛で無駄に楽しげなキャラクターたちだ。

また、キャラクター同士の化学反応にも目を見張るものがある。

クイン(ハーレイ・クイン)の拷問シーンからの脱出劇、
そして彼女が行く先々で何ともユーモラスな状況を巻き起こすところには、間違いなくジェームズ・ガンの手腕が光る。

さらには、デイブ・リー・ロス、神のお告げ、

この一幕だけでも、映画全体の評価を5.0にするに値するのではないか。

心配な点は、ガン自身が私生活や人格がまともになったらどうなるのかという点だ。

彼のこれまでの作品にあった過激さや不道徳さは、
この映画の中では「無敵」ではなくなり、
時にドキリとさせられるほど繊細さも感じられる。

しかし、過度に“まとも”になったら、
逆にこの映画が持つ無法地帯的な魅力が薄れてしまうのではないかという微妙なバランスが絶妙に保たれている。

最終的に、この映画はアカデミー賞最優秀アホで賞を受賞すべきだと言いたいくらい、
すべての要素が絶妙にバカバカしく、
そしてユーモアにあふれたものだった。

「素晴らし過ぎる」の一言に尽きる。





 

『片思い世界』広瀬すず、杉咲花、清原果那のケミストリー

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本作における広瀬すず、杉咲花、清原果那の演技は、
それぞれが持つ美しさや可愛らしさ以上に、
彼女たちの内面から湧き上がる感情の深さが鑑賞ポイントのひとつだ。

シナリオの要求に応えるためには、
彼女たちの演技における繊細さと抑制が欠かせない。

その結果、彼女たちは個々に作品を背負い、
3人の演技が合わさることで、
驚くべき化学変化、
劇中にも出てくるスーパーカミオカンデ効果を生み出し、
視覚的にも感情的にも観客を引き込むことに成功している。

どういうことか具体的に。

シナリオに触れられないので、
演技に関してのみ。

本作は、静かな感情、激しい心、細やかな表現、
を求められる作品であり、

その中で広瀬すず、杉咲花、清原果那という3人の演技が、
物語の核を形成しているのは言うまでもない。

美人、かわいいとその容姿の裏にある繊細な感情や心の葛藤を表現することで、シナリオに求められる高度な演技力を体現している。

【広瀬が演じるキャラクター】
決して多くのセリフで感情を語るわけではない、
目線や微妙な頭部の高低、表情の変化で、
観客に深い感情を伝える。

内面は複雑で、感情を抑え込むタイプのキャラクター。

彼女が目を伏せたり、上げたりすることで、
心の中の葛藤や痛みを表現し、
時にそれが目に見える形でほのかににじみ出る瞬間に、
心が揺さぶられる。

この〈無言の演技〉こそが、
広瀬の真骨頂であり、
彼女がそれほどシナリオのセリフの多くを語らずとも、
その目線一つで伝えることができる力を持っていることを証明している。

【杉咲が演じるキャラクター】
感情を強く押し出さないで、
どこか控えめでありながらも芯の強い女性を演じている。

正反対のキャラクターも他の作品で観てきた。

彼女の演技には、
常に何かを内に秘めているような印象があり、
その無言のうちに感じ取れる〈強さ〉が物語の中で重要な役割を果たしている。

杉咲の表情は非常に豊かで、
顔のほんの一部の変化や、
微細な仕草によって感情の変化を伝える技術に長けている。

彼女がふとした瞬間に見せる微笑みや沈黙の中にこそ、
彼女のキャラクターの深さが凝縮されており、
観客にとっては非常に印象的だ。

見る者を引き込む不思議な力があり、
目線や壁伝いに歩くような演技で、
物語の重要な転換点を感じさせる瞬間が何度も訪れる。

【清原が演じるキャラクター】
物語における〈衝突〉を担う役割を果たしている。

彼女の演技は非常にダイナミックかつ冷静で、
感情がぶつかり合う場面でも、
どこか冷静さを保っているように見える一方で、
その冷静さが感情の爆発を予感させるような緊張感を持っている。

特に彼女が抱える内面的な葛藤が、
他のキャラクターとのやり取りの中で顕著に表れる瞬間は、
息を呑むほどの美しさを超える迫力がある。

しかし、

その衝突の中に見える微細な調和や抑制された感情の動きこそが、
清原の演技の真髄で、
彼女の〈静と動〉が交錯する演技は、
シナリオにおける複雑な感情のバランスを絶妙に保つために不可欠であり、その役割を見事に果たしている。

この映画における3人の演技は、
まさに〈化学反応、ケミストリー〉を通り越して、
同じ場面に登場する、しないにかかわらず、
物語の中で一つひとつの小さな衝突が生まれ、

そしてその衝突が作品全体に新たな方向性を与えていく様子が見て取れる。

まるで素粒子が衝突し、
新しい物質が誕生するような、
まさにスーパーカミオカンデのような、
予測不可能なエネルギーを放ち、
作品の世界観を支えている。

どんなに激しい感情の衝突があっても、
その演技のバランスを保ちながら、
全体としてひとつの調和を生み出すその力量は、
稀有な才能の3人が集まったと言えるだろう。



 

『トップガン マーヴェリック』ひとがひとを魅了する映画の原点回帰

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ひとがやることにおわりはない。

システムは常に変わるが、
それが変わるのも今ではない。

マーベリックは、最新鋭機に囲まれながらも、
旧式のF-14に乗り込み、

「just do it.」 の精神で、
不可能を可能にする。

学生時代に見た前作と、
本作のドッグファイトは、
VFX技術の進化を感じさせながらも、
どこか懐かしい感覚があった。

特に、マーベリックがF-14で敵機を翻弄するシーンは、
まるで彼が機体の一部になったかのような一体感を生み出し、
観る者を興奮させた。

ハインド、F14、ポルシェ。

これらの象徴的な乗り物が織りなす風景は、

単なる小道具ではなく、
マーベリックの人生そのものを映し出しているかのようだった。

単なるアクション映画にとどまらず、
人が人を魅了する普遍的なテーマを体現している。

弘法筆を選ばず、 トム乗物を選ばず。

トム・クルーズの圧倒的な存在感と、
彼の情熱がなければ、 この作品は決して完成しなかっただろう。

「トップガン マーベリック」は、 単なる続編ではなく、
新たな伝説の始まりである。



 

『グラートベック人質事件:メディアが越えた一線』

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メディアの報道倫理が問われる瞬間を捉えたドキュメンタリー作品である。

本作は事件の詳細な記録を映像として提示するだけでなく、
メディアの介入がもたらした影響を深く掘り下げることに成功している。

私自身の記憶にも、
メディアと事件がいかに密接に結びついていたかが強く印象に残っている。

小学校6年生の時、大阪で起きた銀行強盗事件、
自転車で10分程度の近くだった。

その際、教室のテレビは授業中でもつけっ放し、
その時の生々しいリアルタイム中継を見守った。

その時の緊迫した状況と、
メディアがその場に存在していることの不思議さは、
今でも鮮明に思い出される。

あの時、警察の非常線や周辺ビルへの警官の配置、
封鎖された道路、そして騒然とした雰囲気は、
事件が「現実」として迫ってくる感覚があった。

『グラートベック人質事件』で描かれるドイツの事件は、
その時代背景を反映し、
メディアと犯人との近接がもたらす倫理的な問題に焦点を当てている。

特に、犯人にメディアが接近する場面は、
どこか奇妙な落ち着きを感じさせる。

それは、豊田商事事件の時に感じた、
バイト先でミートボールを食べながらリアルタイムでニュースを見ていた時の冷静さと似ている。

事件の緊張感とは裏腹に、
メディアの報道スタイルにはどこか落ち着いた様子があり、
その中で視聴者がその状況をどう捉えるべきかが問われていた。

『グラートベック人質事件』の中で語られる一つの重要なポイントは、
メディアの報道がいかに事件の進行に影響を与えたかということである。

事件発生当初、メディアは犯人と接触することを許され、
その過程で犯人との「交渉」に関与する場面が描かれている。

その一部では、警察がメディアの報道を利用して犯人を引き出すという戦略的な狙いがあったのではないかという疑念も浮かび上がる。

この点についても、映画は一つの仮説を提示し、
視聴者にその意図を考えさせる構造になっている。

映画のラストに登場する、「この事件以降、メディアと犯人が近づくことは禁止された」というメッセージは、事件を通じてメディアと警察、そして社会全体の報道倫理がどのように変わったのかを示唆している。

それと同時に、日本とドイツの報道スタイルには、
昭和時代の終わりまで共通する部分があったことがうかがえる。

特に、メディアと警察の関係や、
報道を通じて社会全体がどのように事件に接していくかという点では、両国が似たようなアプローチを取っていたのかもしれない。

本作は、メディアと犯罪者の距離、報道倫理、
そして事件が社会に与える影響を深く考察する作品であり、
観客に対して「メディアが越えてはならない一線」について再認識させる。

事件をただの事実としてではなく、その背景にある倫理的な葛藤や社会的影響をも浮き彫りにするこの映画は、私たちに報道のあり方を改めて問いかけている。




 

『極悪女王』 ばかやろー!格闘技を見に来てんじゃねーんだよ!

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子どもの頃以来、
プロレスや格闘技とは縁遠いと思っていた私が、

10年以上前に両国国技館「ジ・アウトサイダー」で聞いた、
観客の叫び声。

「ばかやろー、格闘技を見に来てんじゃねーんだよー!」
その言葉は、私の心に深く刻み込まれた。

「極悪女王」を観ている間、
何度もあの叫び声が頭をよぎった。

ゆりやんか、ダンプか、香か、吉田のゆりちゃんか、
それとも全く別の何かを観ているのか。

それはもはやフィクションかドキュメンタリーかという枠組みを超え、
シナリオやドラマ、プロレスそのもの・・・四角いジャングルから飛び出した、
場外乱闘のような壮絶なバトルロイヤルだった。

ジャッキー佐藤、マキ上田、ジャガー、デビル、ブル、クレーン、

飛鳥、長与、ダンプ、ゆりやん、剛力、唐田、根矢・・・

ダイナマイト、ラブリー・・・。

個性豊かなレスラーたちが織りなすドラマは、
観客を真剣に、そして熱狂的に巻き込んでいく。

先日、メディアにあがっていた、

高山の名は・・ここでは触れない・・私には触れられない。

ダイビングヘッドもパンチもキックも要らない。
素顔と素手と血で真剣に勝負するレスラーたちの姿に奮えた。

それは、勝敗を超えた、虚実とは異次元の何か、
人間そのもののドラマだった。

20世紀を代表するプリマバレリーナと呼ばれた、
ガリーナ・ウラノワが言っていた。

最も観客を引きつけるものは何か?

抜群の身体能力でもなく、美しい容姿でもなく、
訓練を積んだテクニックでもないと・・・

その人の生きざま、だそうだ。


両国のあの夜、

観客が叫んでいたのは、
単なる勝利や敗北ではなかったのか、
今でもわからない。

それは、何かもっと根源的なもの、
魂の叫びだったのかもしれない。

迷わず行けよ、行けばわかるさ。

あばよ



 

『オフィサー・アンド・スパイ』映画界にも影響している現在進行形の問題の原点

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ようやく公開。
ポランスキーがドレフュス事件を撮るらしい。

え?
そもそも撮れるの?
公開できるの?

タイトルは、
『私は弾劾する』らしい。

どこまでやるの?
あの有名な絵。
サーベルを折る側を、
全取っ替え(不正の大小を問わず関係者全員が責任を取る)できなかった歴史、
を現代まで描いてるのか。

折られたドレフュスを、
ドガ(D・ホフマン)風に、
描いてるのか。
なぜ、
いまだに折る側が勝ち続けるのか。

結果、オフィサー・アンド・スパイ、、、、。
オフィサーアンドスパイ、、、。

ローナン・ファローの、
命懸けの活動に敬意を表して、
というのを前提として。

ストーリーテリングの堅実さに改めて驚く。

ピカールの軍の仕切りに対する厳格さ、軍人としての矜持、
上司や部下の正義のベースはヘイト、その中の微妙な温度差。

難病もサイコも必要としない、
普通の生活に巣食っていく、
暗さ悲しさで、袋小路に追い込まれていく登場人物を描くポランスキーは健在だった。

それらを、
難しそうに見せないで、
人物にカメラを向けるか、
相手に向けるか、
それとも手元に?
小道具に?
が的確なので、
迷う事なくストーリーを追える、各キャラも腑に落ちたものが積み上がっていく。

シナリオ、演出、芝居が、
ハイレベルで揃ってないと、
不可能な見せ方。

いつものポランスキーなら、
更に、おもしろい変化球を、
投げてくるが、今回は無し。

悪辣な変顔も、
善人の大げさな芝居も不要。

ハラスメントと作品のクオリティは別、
とは言えなくなってきた昨今(当然、ハラスメントは犯罪、警察検察司法のプロに然るべき対応をしてもらわないといけないでしょう。)、
さすがにもう見納めか。

数年前の、
カンヌ映画祭でポランスキーを逮捕に来た警官隊が、
映画祭は治外法権と、
警察介入を許さなかった映画祭側の権利とか義務とか、
自由や責任の意識まで、
今後日本映画界が辿り着く事があるのだろうか、

とまでは言わないが、少なくとも表現の自由とか、
公共の福祉とか、犯罪には刑罰をとか、
現在のムーブメントに加えて、
キャストもスタッフも欧州的な国家資格的な制度、
米国的な時間積み上げ制度等、
仕組み化までの具体的な話しが始まらないか、、
なんとかならないか、、。

全取っ替えできなかったドレフュス事件の効果は大きい、、、はず。





 

『KCIA 南山の部長たち』 ソウルの春の前章

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1979年、韓国を震撼させた朴正煕大統領暗殺事件。

この衝撃的な出来事を、映画『KCIA 南山の部長たち』は、

派手なアクションや過剰な演出を排し、静かに描き出す。

それは、まるで事件の陰に潜む、
複雑な政治状況と人々の心の動きを丁寧に抉り出すかのような、
重厚なアプローチだ。

当時の日本でも一面を飾ったこの事件は、
韓国社会の暗部を鮮やかに浮き彫りにした。

権力闘争、腐敗、そして国民の抑圧。

これらの要素が、映画の中で息づき、観る者の心を揺さぶる。

地道に、ストイックに描かれる物語は、
まるで歴史の重みに耐えようとするかのような静謐さを湛えている。

主人公イ・ビョンホンは、権力の中枢に身を置きながらも、
その裏側で苦悩し、葛藤する。

彼の心の動きは、細やかな表情の変化や、
わずかな言葉の端々に現れ、観る者に深い共感を呼ぶ。

余計なアクションに頼らず、
最低限の火力使用で描かれる映像は、
かえって事件の衝撃を際立たせる。

派手な銃撃戦やカーチェイスといったアクションは一切なく、
緊迫感は、登場人物たちの心理描写と、
静謐な音楽によって作り出されている。




 

『パワー・オブ・ザ・ドッグ』主演ベネディクト・カンバーバッジ

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広大な荒野を舞台に、繊細な人間模様を描いた作品です。

しかし、その繊細さは、シナリオや演出において、

もう一歩踏み込んだ表現が欲しかったという印象も残ります。

本作は、観客に物語を「嗅ぎつける」ことを要求します。

登場人物たちの心の奥底にあるものを、

セリフや行動から読み取らせるという手法は、賛否両論を呼ぶでしょう。

冒頭の牛の移動シーンは、「赤い河」の牛の大移動シーンを彷彿とさせます。

現代において、このような大規模な撮影はCGに頼らざるを得ないのかもしれません。

実写ならではの重厚感も失われているように感じられます。

ベネディクト・カンバーバッチの演技は素晴らしいですが、

作品全体が彼の演技に頼りすぎている感は否めません。

観客の想像力を掻き立てる演出は魅力的ですが、

一方で、観客の理解力に任せすぎている部分もあるように思います。

「推して知るべし」ではなく、「嗅いで知るべし」という表現が印象的です。

しかし、何を嗅ぎつけるべきなのか、

観客に明確なヒントが与えられているとは言えません。

馬の匂い、馬具の匂い、人間の匂い…これらの比喩的な表現は、

作品の世界観を豊かにしますが、同時に、観客を迷わせる可能性も孕んでいます。

この映画は、嗅覚を研ぎ澄ませ、

登場人物たちの心の奥底にあるものを「嗅ぎつけよう」とする観客にとって、忘れられない作品となるでしょう。




 

『ZAPPA』プラハの春の後、なぜ、フランク・ザッパは招待されたのか・・

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プラハの春を経て、
90年代前半に、ソ連から解放されたチェコスロバキア。

米国から招待されたのは、
国家元首でもなく、
政治家でもない、
フランク・ザッパだった。

ウクライナに平和が戻った時に、招待されるに相応しいミュージシャンはいないだろう。

ザッパはもういないから。

なぜザッパだったのか?

を、

音楽という切り口で、
あるいは、
自由という切り口で、
描いた2時間強。

素晴らしい!

最近、音楽映画が、
ノンフィクションのナマ感を越えて、フィクションの作劇よりも劇的に素晴らしい作品が多い。


ヴァイ先輩が静かにインタビューに答えていた姿がよかった。
ボジオ先生は一瞬だった。

大阪上本町の居酒屋ザッパは、
まだあるのだろうか。




 

『カモン カモン』ホアキン・フェニックス主演、上手に生きる、よりも、まともに生きる。

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地球の未来に希望はありますか?
子どもたちへのインタビューの記録をし続けるジョニー。

彼曰く、

飾り気のない、
力のない言葉も、
記録して未来に繋げる事で、
スーパーパワーになるらしい。

まともでいる事を優先する、
器用に振る舞わない、
その場凌ぎの言葉を使わない、
今回も、
めんどくさい人たちを、
ストーリーの中心に据えるマイク・ミルズ。

上手に生きるより、
まともに生きる。

もちろん感動とか、
涙、涙、なんて狙わない。

今回は9歳の少年。

想定している心配事はたいてい起こらない。
想定外の事が起こる。
いっぱい起こる、、
Cmon Cmon!
『20センチュリー・ウーマン』もおすすめ!



 

『目指せメタルロード』ツェッペリン・・AC/DC・・・

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「まさかのカーチェイス!?」に隠された、音楽への深い愛情と意外性

ハードロック、メタルのレジェンドたちが網羅されているという本作。

そのラインナップは、まさに音楽好きにはたまらないものだろう。

しかし、この豪華な顔ぶれの中にあって、
ツェッペリンやAC/DCに触れられていないという点に、
ある種の「リスペクト」を感じた。

それは、単なるオマージュではなく、
それぞれのバンドが持つ独自の音楽性を深く理解し、
それらに敬意を表しているからこそ、
あえて直接的な言及を避けたのではないだろうか。

チェロとドラムを組み合わせたシーンでの鳥肌感は、

本作が単なる音楽映画にとどまらず、
音楽の新たな可能性を提示していることを示唆している。

クラシック楽器であるチェロと、
ロックの心臓部であるドラムの融合は、
一見すると異質な組み合わせだが、
その音の響き合いは、

まさに「拷問マシーン」のような強烈なインパクトを与え、
聴く者の心を揺さぶる。

そして、ライトハンドテクニック。

このテクニックは、メタルギターの表現の幅を大きく広げたものの一つであり、
本作でもその激しさが余すところなく描かれている。

ハルフォード兄貴ことロブ・ハルフォードの存在感もさることながら、

トム・モレロがプロデューサーを務めているという事実は、
本作の音楽的なクオリティの高さを保証するものである。

しかし、この映画のもうひとつの魅力は、
何と言っても「まさかのカーチェイス」だろう。

ハードロック、メタル映画において、
カーチェイスという要素は、
一見すると意外に思えるかもしれない。

しかし、考えてみれば、ロックミュージックは、
そのダイナミックなサウンドとエネルギーによって、
常に前進し続けるものである。

そして、カーチェイスは、
まさにその「前進」を視覚的に表現したと言えるだろう。

本作は、単なる音楽映画にとどまらず、
音楽と映像、そして物語が融合した、
新たなエンターテイメントの形を提示している。

音楽ファンはもちろん、映画ファンにとっても、見逃せない作品である。




 

『SHOGUN 将軍』実は日本国内もロケハンしてました。

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日本の太平洋側の津々浦々を、
ディズニーFXのプロデューサーチームとロケハンしました。

日本各地の城や合戦シーンの撮影可能な広大な場所もロケハンしました。
様々な湾、浜での網代の街のセット構築のシミュレーション、
日本での史実であるリーフデ号の遭難、
愛の不時着のようなお話しのリアリティに関して、
ロケーション撮影時の注意事項、
三浦按針の三浦半島も周りました。

1980年版で実際に網代の街のオープンセットを建てて、
撮影した場所にも行きました。

長期間一緒にいたので、
米国、英国のスタッフとどんな話しをしていたか等
youtubeで話しています。
ダークナイト、インセプションのプロデューサーに、
クリストファー・ノーランの笑えない話しも聞きました。

結果、カナダ他各地で撮影が決まりました。
その後は私は本作には参加していません。

キャストもスタッフも素晴らしいクルーです。

ぜひお楽しみください。

そして、
近日、発表予定の・・・お楽しみに!




 

佐藤二朗がすごい『さがす』

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さがすの主語は?
誰?あなた?
目的語は?

【親切な原田さんに憐れみを】
結論から言うと傑作です。
各シークェンスのシナリオ上(と推察される)でのおもしろい事、各シーン、各カットに埋め込まれた豊富なアイデア。
実際に起きた数件の凄惨な事件の背後に通底する陰鬱だけど、目を逸らせないテーマを散りばめている。
と、
【さがす】スリリングなエンターテインとの両立はお見事です。

20年ほど前に、
『復讐者に憐れみを』を観た後に、ブログに書いた事を思いだしました。
パク・チャヌクの暗黒面のフォースしか、今後観れなくなるのでは?という心配(今となっては杞憂どころか、想定外の凄い事になってますが、、)
でした。

つまり、これだけ類稀な技術を
、エンタメ作品に使用すると、興行的にも話題的にも、凄い事になるでしょう。
そうなって欲しい反面、
こういうゴリゴリの業の作品も見続けたい、可能なのか?

そんな事を書いたことを思い出しました。

最後にこの街の出身者として感じる事は、
モラルハザード的に描かれたり、バイオハザード的にネタにされたりするのは、しかたがない事(小学生の頃は今よりめちゃくちゃカオスなリアルゴッサムシティでした。)ですが、めちゃラブリーな街でもあるという部分にもスポットを当てて欲しいとも思います。




 

クロエ・グレース・モレッツ『シャドウ・イン・クラウド』

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『シャドウ・イン・クラウド』というよりも!
シン・ヒットガール。

とにかくくだらない男達を黙らせる映画!

クロエ・イン・ザ・クラウド、という感じ。

観る側、
と、
魅せる側の、
信頼関係によって、
成り立つかどうか決まる作品。

魅せる側は、
高い技術力が必要。
カット割り、芝居、
飽きさせないシナリオ。

観る側も、
子どもだましとか、
八百長とか、
言わないで、
Showを楽しむ、
映画に乗っかる事ができる眼力の高さを問われる。

理屈はいらない!
スタンディングオベーション!

ちなみに、
母乳は赤ちゃんの口に入る寸前までは真っ赤な血液だそうだ。
粉ミルクはそれ以上に栄養満点だそうだ。
我が子に血を乳を飲ませる姿の背中で男達を黙らせる、、、かっこえー。

♪まぼろしなんかじゃない、
人生は夢じゃない、、、
真っ赤な血ーがー、
身体中を流れてるんだぜー♪




 

『最強殺し屋伝説国岡 完全版』おもしろ過ぎる!

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食のトレジャーハンティングですよー、いただきます!
映画のトレジャーハンティングですよー、ごちそうさま!
打ち上げは王将いや居酒屋か。

アイデアの質と量とそれを実現化するキャストとスタッフワークに驚嘆!!




 

『シン・ウルトラマン』圧倒的な100分

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テンポ重視が、
ダイジェスト版っぽくみえるのは、50年以上前からの賛否命題のひとつ。
スコセッシの『グッドフェローズ』が自分の中で評価が低いのはダイジェストみたいだから。
しかし、
世間の評価は高いし、
スコセッシの演出の問題でもない、
そういうトーン、ルックで売る!
という製作チームの方針に過ぎない。

冗長になるのを避けて、
できるだけ物語の芯を食った短いカットを繋げて、シークェンスを構成している。

「そんなに人間が好きになったのか、だったらその理由をメインプロットに敷かなくていいのか、ウルトラマン」
「それをやるのは、最近ならバットマンに任せよう、ゾーフィ」
「逃げちゃダメだ、ウルトラマン」

光の国でそんな会話は無かっただろうが、
無機質な芝居で、
SFの世界観を背負わせるのは常套手段だが、観客に飽きさせないのは至難の技。


ミニチュアor CGではなく、
観客を喜ばせる為には、あらゆる手法を駆使するチームワークが素晴らしい。

その中でも、他国では真似のできない CGとミニチュアワークは世界最高峰!っていうかやれる国はある?

あの絵、あの音、あの音楽、あのポーズだけでも大満足の人も多いのでは?

地球外生命体と、地球人、日本人のやりとりの一映画としても楽しめる。
初代、セブン、帰ってきた、エースその後とこんな概念をストーリーに入れ込んでいた事に世界が追い付いたのか、一周回ったのか、DCEU、MCUなどのハリウッドエンタメよりも哲学的に一歩踏み込んでいるのは、世界中のエヴァ好きの人達の動向にも現れている。

ミニチュア、特撮とは、
昭和の古き良き、ピアノ線がバレてるような失笑もののイメージを持ってるひとが少なくないらしい。
なんでも CGにしてしまうと、
このミニチュア特撮ワークと CGで観客を圧倒する技術が絶滅してしまう。

圧倒的な約100分!





 

THE BATMAN -ザ・バットマン‐

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シンプル過ぎる語り口に驚く。
シンプル過ぎて、MX4Dの座席は最後まで動かないんじゃないの?
と、心配になった。
MX4Dで観てるわけでもないのに、、、。

映画が始まってから入ってくるひと、トイレに行く為に出るひと、携帯のライトピカ〜でウロウロするので、バットシグナルみたいになってるこれもMX4Dか?
MX4Dで観てるわけでもないのに、、、。

さて、

物語も絵作りもゆっくりじっくり魅せていく技術は素晴らしいし、
音の使い方、様々なパターンのAve Mariaとカート・コバーンの天国と地獄?
ゴッサムと涅槃?
ダークなナイト感が、
また、
始まってしもたー、
え?
でも?
リドラーのなぞなぞがメインプロット?
え?
それでいいの?



ヒーロー映画の、
敵や悪の設定が、
モンスター→独裁者→宇宙人→
セレブ悪党→腐敗政治家→
格差・・・。
もうそろそろ、格差への
【復讐】(最初から継続されている復讐)というのも次の手が必要かなと思ってたら、
現実社会は独裁者が、
敵になってきた。

リアリティを考えると、
また独裁者に逆戻り?
または、
ジョーカー印化粧品時代の、
ソリッド感皆無の、
牧歌的バットマンに逆戻り?

バイクのシーンも美しかったが、最後の◯◯、必要?

リアル・バットマン
ガチ・バットマン
シン・バットマン
バットマン・夕陽のカスカベボーイズ、、、、。

DIY・バットマンからは、
脱却していた。

DCEUはヴァンパイアも巻き込んでいくのか?
という心配はなさそうだったのでひと安心。





 

『ドリームプラン』テニスのウイリアムス姉妹の実話

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オスカー像を握った瞬間に、
リチャード・ウィリアムスを、
演じるという魔法から解放されたであろうウィル・スミスと、
テニス界のコペルニクス的転回について。



90年代も終盤、
男子テニスのプレイスタイルは、
サンプラスやアガシのようなパワーテニス、
女子はバックハンドはスライス、サーブ&ボレーのスタイルが王道となり、やや退屈になりかけていた矢先、
スーパーパワーヒッターの爽快なプレイヤーが出現しました。

それも姉妹で。

更に書きたい所ですが、
伊達公子、グラフ、ジョコビッチ、フェデラー、
ナダルのベンチ前ドリンク2本並べるルーティーン、
ニック・ボロテリーアカデミーまで、
テニスの概念を破壊して、
市販のラケットの構造にまで影響を与えた人たちのたった20年弱の間のコペルニクス的テニス界の転回まで書きたくなるのでこの辺で。

あ、マッケンローも、らしいキャラで一瞬出てました。

ビーナスを試合に出さない理由を話すシーンは泣けました。

このシーンだけで、
半径1メートルの周囲を描きつつ、
父娘、家族、テニス界、世界、地球まで全部乗せにして胸を掴むシナリオ、 演出の技術を魅せてしまう、、、
素晴らしいです。

テニスの技術も、もちろん、
父親の、
娘の成長プランに関しては譲らない気負い、
短気さ、
勝っても相手への思いやりを忘れるなという紳士であろうとするスタンス、
両方とも同時に混在させる芝居の押し引きの技術(シナリオ、演出、芝居、いずれかが欠けると目も当てられません。)も素晴らしいです。